夏の明るい陽光をみていると、なぜか昔を思い出す。

ジリジリと強い太陽と、どこから響くのかわからないセミの声。そういう風景を見ていると、昔を思い出してしまうことがありませんか。
今日はなぜかふと、10代の頃に見た映画「バグダッド・カフェ」を思い出しました。

大学生の頃、僕はレンタルビデオショップで「返しては借りて、返しては借りて」を繰り返している時期がありました(レンタルビデオショップ、という言葉が通じなくなる日も近いのだろうな)。
今振り返ると、どうしてそうも映画ばかり見ていたのだろうと思いますが、とにかくたくさんの物語を体の中に入れたい時期が僕にはあって、それが十代の最後の頃だったんです。

そんな「返して借りて」のループに入り初める直前に見たのが、「バグダッド・カフェ」です。
名作中の名作のひとつで、主題歌の「calling you」も、映画が始まった時の”車がエンストした映像”も、それらの醸し出す空気は、みんな体の中に残っています。

こういういい映画を見たおかげで、あの頃の僕は「物語を渇望する」ようになったのだと思います。

今はもういい大人ですから、映画でも小説でも、「この作品の、言いたいことはなんだろう」なんて、考えることはありません。だって「世界平和」だって「愛」だって「がんばれ!」だって、それらはほとんどすべて言い尽くされていて、それがどれほど大切なメッセージでも食傷気味だからです。「もうわかったよ」と思うから。

でもあの頃、バグダッド・カフェを見て僕は
「どれだけ周りに人がいたとしても、『この人がいなければ寂しい』ということが、人生にはある」
こんなメッセージを受け取り、「そうそう。そうなんだよ」と大きく頷いたことを覚えている。

物語は、それ自体が説教をしてくることはありません。
物語の流れや、登場人物の台詞の中から、僕ら自身が(ある意味勝手に)何かを発見します。
自分で発見をするから、そのメッセージが「抱えていた言葉になる前の気持ち」と共鳴すると、強く揺さぶられ、深い共感が生まれるんだと思います。

SNSがある世界の、”共感マーケティング”なんていわれる小手先のテクニックではない、もう少し深いところから溶け合うような、揺さぶられるような経験です。

ああ、そうだ。

僕は子供の頃からテレビを見たり、マンガを読んだり、小説を読んだりしてきたけれど、あの頃映画に触れて感じたものは、生まれてはじめての経験だったのだろう。

安易に言葉で言い表せてしまうような「解像度の低い感覚」ではなく、普段使いの言葉ではうまく捉えることができない、微細な何か。それは間違いなく僕の中にあって、物語と共鳴が起こるたびに姿を現す。すると僕は「ああ、自分の中にはこんな感覚があったんだ」と分かる。きっとそれが嬉しかったんだ。その感覚に魅せられて、その感覚を渇望して、映画を見続けていたのかもしれない。

バグダッド・カフェの中の登場人物は、誰も「彼女がいないから寂しい」なんて言わない。けれど、物語や映像や音楽や、俳優たちの細かな言動が、僕に「僕にも大切な人がいる。そしてそれは僕にとって大切なんだ」を思い出させてくれた。

きっと・・・その感覚は無視して生きることはできる。
けれど、無視をして生きていると、自分が何を感じているかがだんだんとわからなくなってしまう類の何かだと思う。

僕らはきっと自分が思っているよりも複雑で微妙な感覚を体のうちに感じながら生きている。そしてそれは、僕自身に受け止めてもらうことを、待っているような気がする。