大学の頃からカメラが好きだった。
亡くなった祖母が、僕ら家族になぜかニコンのカメラを買ってくれたのが、カメラをはじめたきっかけだった。
朝の新宿、自宅近くの夜の道やお酒を飲む友人たち、ビルの合間の夕焼け。あちこち風景を撮って歩いた。
少しずつカメラのことを学び、レンズを揃え、フィルムもリバーサルフィルムにしたりして。
「現像、高いなー」と思いながら、何枚も何枚も下手な写真を撮った。
子供が生まれると、カメラをデジタル一眼レフに変えて、それから子供ばかり撮るように。
フィルムと違って現像に費用がかからないのをいいことに、娘のちょっとした表情を幾枚もカメラに納めた。
子供は表情が豊かで、撮っても撮っても飽きない。1年を超えた頃、気づいたら3000枚を超えていた。
それから次女が生まれ、それぞれ成長し、家族の形が少しずつ変わっても僕がレンズを向けるのは家族だった。
その期間が過ぎたあと、ある日、自分の撮る写真が変わっていたことに気づいた。
学生の頃は、なんてことない風景にレンズを向けていたのに、
今は、知っている人の気配のない写真を撮りたい気持ちがなくなっている。
家族の写真はもちろん、仕事を一緒にする人たちや友人のような、なにかつながりのある人が周囲にいる写真でないと物足りない。
人の気配のない、自分と距離のある風景は、たとえきれいな写真が撮れても、その距離が縮まらないのだ。
たとえば、この間新潟に行った時にクライアントさんと撮ってもらった写真がすごく好きだし、
こんな、一見ただの風景に見える写真も、僕にとってはフレームの外に娘がいることが大事なのだ。
僕は、自分が思っているより、人が好きなのかもしれない。
カメラを向ける対象の変化から、46歳になって、そんなことに気がついた。
そういえばと、思い出した。
大学の頃、友人とタイやマレーシアに旅行に行ったことがある。バックパックを背負い、2週間くらいだったか。
旅先で歩いていると、人と出会う。店先で昼からお酒を飲んでいるおじさんや、おばさん。
出会った人たちと話し込んでしまい笑い合う。そんなことが続いたある日、友人に怒られた。
「お前は、待ってるこっちの身にならないのか」
その友人も、勝手にたのしんでいると思っていたから、面食らったのを覚えている。
でもそのとき本当に申し訳ない気がして、「自分は、人のことをみていないのではないか。だから友人に気を配れなかったのだ」と思ったのだった。
未熟だったことには変わりないから、思い出すと今でも申し訳ない気がする。
でも、あのときの自分の反省の仕方は、ずれていた。人を見ていなかったり、嫌いなわけではなかったのだ。
僕は時折、仕事をしていて「どうしてコンサルティングをしているんですか?」と聞かれる。
自分は人が嫌いではない、と気づいてから、その質問にも、答えられるようになった。
同業者はセミナーを中心に仕事をしている人も多い。1日2日でたくさんの人を教えることは、収益をあげることを考えれば、とても効率的だ(もちろん、その仕事に矜恃を持ってがんばっている人ばかりなので、効率のためにやっているとは思っていない)。
でもそちらのほうが効率的だから、コンサルティングをする僕に対して「どうして、1社1社と会うような非効率をしているのか」と問うのだ。
今なら、自分がコンサルティングを選んだ理由がとてもよくわかる。人と出会いたいからだ。
講演やセミナーでの関わりは、「僕が話す時間」と、「話し終えた後、少し話す時間」に限られる。話を聞くときも「面白かったです」「勉強になりました」と感想を聞くだけだ。
でも、コンサルティングならもう少し長い時間があり、目の前にクライアント経営者さんがいて、その人の物語がある。
その物語を受け止め、その物語の中に入り込み、一緒に前に進む。
近づく分、大変なことも、たのしいこともあるけれど、それを一緒に経験する時間が、たまらないのだ。
僕はどうやら、人が好きだ。少し時間がかかったけれど、気がついて良かったと思う。